浄土宗西山禅林寺派 恵能山 善光寺
歴史
善光寺は、もともと浄土宗西山派禅林寺・光明寺両本山に属した専養寺の末庵「智暁庵」から興っています。現在、善光寺があるこの場所は、以前、笠松陣屋の牢屋があり、罪人の処刑場で、今も牢屋敷というのはこのためです。
斬罪された亡者の霊に対して誰一人これを弔う者がいないのを見て、元文元年(1736年)恵澄居士・恵教尼夫妻が敷地560余坪を寄進、一宇を建立し、無縁の亡霊を弔うこととしました。
明和6年(1769年)、開基の実子である冷山智暁童子が死去したため、その法名から智暁庵とされ公許されました。庵主第 一世は開基の妻(智達恵教浄行尼)で、専養寺で得道、入庵して斬罪者および牢死者菩提のため、念仏三昧で世を送り、寛政6年(1794年)卒去されまし た。二世である円明恵教浄行尼は天保9年(1838年)に、三世である智音明観浄行尼は安政6年(1859年)にそれぞれ卒去されました。
そして、四世の智空恵教法尼の時に明治維新を迎えました。恵教は、明治3年(1870年)極悪人の処刑場、藤掛村嫁ケ淵にあった、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏二基の石碑を境内に移しました。恵教は、明治12年(1879年)卒去されました。
五世の称円は、明治13年(1880年)に入庵し、廃寺同様に荒れ果てた庵の再興を図り、同15年より町墓地の管理をつとめ、同17年善光寺如来を勧請奉安しました。ついでその後官有地となっていた斬首場を、同19年払い下げを受け、境内135坪を拡張しました。
明治24年の大震災で建物全部を倒壊しましたが、同27年に善光寺仮本堂として間口四間奥行き五間の平家造りを建て、同37年には濃尾大震災の死者300余人の菩提供養追善のために、金1400余円を投じて釈迦如来の銅像を建立しました。
大正元年、工費1700余円をもって庫裡を建て、昭和10年には工費37000余円をもって間口七間奥行き八間二重屋根の本堂再建の起工をし、昭和14年に竣功落慶して同年善光寺と改称をしました。
(参考文献:笠松町史)